戦後、人口の三分の一を失った沖縄では人々が大きな悲しみの中で暮らしていました。
そんな状況の中で「笑い」を大切にし続け、沖縄の戦後復興を支えた人物が現れました。
それが小那覇舞天(おなはぶーてん)さんでした。本名は小那覇全孝という歯科医でした。
仕事の時は、まじめで口数が少ない舞天さんでしたが、外では「笑い」を追求する男に変わります。
舞天さんは、毎晩のように、弟子の照屋林助(てるやりんすけ)と三線を弾きながら、
「ヌチヌグスージサビラ(命のお祝いをしましょう)」と歌い、様々な家に入っていくのです。
そして、ヘンテコな踊りを舞いながら、即興で民謡を歌い続けるのです。
舞天さんがすごかったことは、次々と人々を巻き込んでいったことです。
ユーモラスな姿に乗せられ、みんなも一緒に踊り出しました。
大変驚く、教訓深い話が一つあります。
それは、舞天さんが位牌に向かって涙を流している人と出会った時です。
「どうしてこんな悲しいときに歌うことができるの?多くの人が戦争で家族を失ったのに!戦争が終わってからまだ何日も経っていないのに、位牌の前でどうしてお祝いをしようというのですか?」
すると舞天は答えました。「あなたはまだ不幸な顔をして、死んだ人たちの年を数えて泣き明かしているのか。生き残った者が生き残った命のお祝いをして元気を取り戻さないと、亡くなった人たちも浮かばれないし、沖縄も復興できないのではないか。さあ遊ぼうじゃないか」
信じられるでしょうか。
舞天さんは、悲しみに暮れている人に、こんな言葉を投げかけ続けたのです。
そして、人々を癒し、元氣を与え続けました。
人々は、おなかを抱えて笑い、少しずつ元気を取り戻してきました。
弟の照屋林助は、述べています。
「小那覇舞天は私にとっては先生です。先生は、夜になると『林助、遊びに行こう』と私を誘いに来ます。水筒に入った自家製の酒をチビリチビリ飲みながら家々を回ります。まだ起きている家を見つけると『スージサビラ(お祝いをしましょう)』といって入っていくのです。
当時は、一軒の家に一〇〇人くらいが詰め込まれて生活している状態でしたから、すぐに人の輪ができて笑いのうずが巻き起こりました。先生のつくり出す笑いは、希望を失った人々にとってどんなに救いになったか、計り知れないと思います。
先生、すなわち小那覇舞天という人は、自分が有名になるとか、偉くなるとかいうことにはまったく興味を持たない、ただ、どうしたら人を楽しませることができるのか?ということばかり考えている人でした。人を喜ばせる、人に喜んでもらうことが自分にとっての一番の喜びだったのです。
それは、笑いというものが、どんなときでも人の心をなごませ、勇気づけるものだからではないでしょうか」(「てるりん自伝」より)
沖縄は、最も戦争で被害が大きかった場所です。
普通であれば、「最も笑ってる場合ではない」状況と言えるかもしれません。
しかし、舞天さんは、そこでも笑いを大切にし続けたのです。
そこには、どれだけの勇氣が必要だったか、どれほどの愛が必要だったかわかりません。
自分が悲しんでいる時に笑う人はいても、
人が悲しんでいる時に一緒に笑うことができる人は、中々いません。
舞天さんは、時代を超えて「笑いの本質」を問いかけてくれています。
【参考】
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato099.htm