昨日は知人の岩井直也さんが講師をされているd.M(デジタル・メディテーション)に参加してきました。
2年ぶり2回目の参加でしたが、その中で、大変いい氣づきがあったため紹介させていただきます。
digital Meditation(d.M)は、2017年に誕生した、現代の生活に適した新しいメディテーションです。
そのルーツとなった瞑想法は、平安の時代から続く公家に伝わる作法であり、日本古来の瞑想法といえるものです。その日本古来の瞑想法を、現代のメディテーションテクノロジーによって、飛躍的に進化させたもの。
それが、digital Meditation(d.M)なのです。
(d.M Lab HPより引用)
それは、「眼を開けることの大切さ」です。
以下、その理由を、わたしなりの氣づきの観点から解説します。
瞑想をすると、ほとんどの場合、眼をつぶると思います。
しかし、d.Mの中では、
眼をつぶる=自己の世界閉じこもってしまって、現実世界から離れてしまう側面も強くなる
というのです。
そういう説明があり、その視点との出逢いが、昨日は大きな発見でした。
よく考えたら、仏教の座禅でも「半眼」が推奨されていますよね。調べると「目を閉じると消極的になり、余計な妄想がわいてきますので、閉じないで下さい。」といった解説や、睡眠防止のため、などいくつか解説が出てくるのですが、たしかに仏像をイメージすると半眼のものばかり。
ここに「何か」があるのは間違いなさそうです。
そして、さらに半眼にする理由として
同時に存在している自分の内側と外側、その二つを統合するためです。
「半眼」には、現実に意識をとどめながら、深い潜在意識にも入っていくという効果があるのです。
といただいた冊子に書いていまして。
ここを読んで、また昨日そこを意識して実践してみて、やっと半眼にする理由が掴めた氣がしました。
というのも、先日記事を書いたIEC(インテグラル・ヨーロピアン・カンファレんス)の中で、瞑想が当たり前にされていることに触れましたが、ただただ見つめ合うことを基本に行われ、対人瞑想ともいわれる”Circling”が、まさに眼を開いた状態での瞑想で、「相手を見つめる」ということを通じて、相手との関係性の中で、なかなかの深い境地に入っていきやすかったからです。(日本人向けに英語を訳し直して、Circlingの分科会講師を務めたほど、感動がありました)
目を瞑ることが瞑想なのかもしれませんが、「眼を開ける瞑想」もありだなと思わせられる機会が続いています。
自分の感覚としても、眼を開けることで現実創造するエネルギーが高まる氣がしました。
眼を開けながらにして、意識を深めていく。自然と、深まっていく。
昨日は七夕の深い意味も学びながら、黒曜石を見つめながらの日本古来の瞑想法の実践の機会となりました。
笑い総研も、日本古来のあり方から現代を見つめ直し、笑いで世直しをしていく、そういう思いが根底にあります。
日本語的にも「笑いは祓い」であり、日本神話の夜明けも「みんなで笑って岩戸開き」からはじまっています。
現代社会に現実創造するという意識がさらに高まった、また対人瞑想の意味も深まった七夕の夜でした。
d.Mに関心ある方は、ぜひ岩井直也さんまでお問い合わせください。
笑いというのは、静寂があると引き出されやすくなりますし、
笑った後は、静寂の時間をより深く味わえるようになります。
瞑想の質も、涙が出るほど笑いきって、雑念や抑圧感情を発散させたあとほど深まりやすいのです。
そしてこの瞑想の時間が、自己の内面的発展へとつながっていきます。
もちろん、またそれが外側の自分にも反映されていきます。
また、それが集団や周囲の内面、外面にも影響を及ぼしていきます。
(このあたりがインテグラル理論を学ぶことで、次々と深まっています)
「ただ笑うだけだけど、ただ笑うだけではない」のです。
笑い総研の進化版プログラム、これからお届けしてまいります。
どうぞお楽しみに!!
もう笑うしかないっ!!