ぼくがここで問題にしたいのは、人類全体が滅びるかという漠とした遠い想定よりも、いま現時点で、人間の一人ひとりはいったい本当に生きているだろうかということだ。
本当に生きがいをもって、瞬間瞬間に自分をひらいて生きているだろうか。
システムのベルトコンベアーに乗せられ、己を失って、ただ惰性的に生活をつづけているというのなら、本質的に生きているとはいえない。ならば人類滅亡論をいうことも意味がないじゃないか。一人ひとりが強烈な生きがいにみちあふれ、輝いて生きない限り。
岡本太郎著『自分の中に毒を持て』より
生きるー それは本来、無目的で、非合理だ。科学主義者には反論されるだろうが、生命力というものは盲目的な爆発であり、人間存在のほとんどといってよい巨大な部分は非合理である。われわれはこの世に何故生まれてきて、生き続けるのか、それ自体を知らない。存在全体、肉体も精神も強烈な混沌である。そしてわれわれの世界、環境もまた無限の迷路だ。
だからこそ生きがいがあり、情熱がわく。人類はその、ほとんど盲目的な情感に賭けて、ここまで生き抜いてきたのだとぼくは思う。
ところが科学主義・合理主義は割り切れたものだけしか問題にしない。そのシステムによって動く現代社会、産業、経済機構のなかで、すべては合理的に、また目的化される。”生きる”ということの非合理、猛烈な情感は顧みられない。ほとんどの現代人は己の存在のなかの芸術家を圧殺している。だから人々は阻害され、知らず知らずに絶望しているのだ。絶望しているということさえ知らないほど、深く、空しく。
岡本太郎著『自分の中に毒を持て』より
あなたは、生きていますか。
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他者の “生きる” を、見つめる。
自分の “生きる” と、対峙する。
たくさんの “生きる” が交錯して ー
また新たに生きる。