犯罪者は “しあわせ” だったのか? 幸せに妥協しない生き方を求めて。

自然はいつもただそこにあり続けていて。

何かあると、そっと手を差し伸べてくれる。

日常の一コマだけれど、その一瞬に感動する。

 

むかしは、人も自然(じねん)という言葉に含まれる存在だった。

そんな自然を感じる風景を見ながら、自分も嬉しくなる。

天気がよくて、心地よい風に吹かれて。

 

こうして、ただの日常の風景にしあわせを感じる一方、こんな問いがたまに顔を出す。

非道な事件や犯罪が起きたとき、犯人を責める言葉ばかりが聴こえてくる。

 

でも、その人は”しあわせ”だったのだろうかと。

 

それまでの人生で、”しあわせ”を心から感じることができていたら、そうはならなかったかもしれない。

その人自身の心が、豊かで、満たされて、日々の暮らしにしあわせを感じられていたら、どうだったのだろう。

「加害者」という言葉の裏には、「被害者」という意味も感じてしまう。

 

それゆえ、一人一人が、自ら愉しく生きることができれば、世の中はユニークな変化を起こすと思う。

先日、不食の弁護士秋山義胤先生も、88ギャラリーでの陳瑞琴先生との対談講演会でこんな言葉を話されていた。

 

「自分の幸せに妥協しない!」

 

これくらい強い意志で、幸せを感じる許可を自分に与えられたら、素敵だ。

 

僕ら人間の多くがもつ不幸や罪の意識は、後から芽生えている。

どれだけ人を殺めてきた人でも、くったくのない笑顔をもつ赤ちゃんの時期が元の姿。

その後の成長過程で、言葉と共に思考がつくられ、”自分”が出来上がっている。

 

果たして、その”自分”は本当の自分なのだろうか。

 

今まで吸収してきた言葉には、過去の伝統や習慣、親や先生からはじまり、周りの意識もセットでついていたはず。

言葉そのものには意味がなく、その人の意味付けが意味を持たしている。

もしかすると、その意味づけは、さして重要ではない意味づけかもしれない??

誰の人生?自分の人生!

自分自身で、人生の意味付けができたら・・・

↑ 「サイコーサイコー♪♪」

ラフターヨガやジブリッシュには、その意味づけを一度壊す力がある。
(という意味づけを、私はしています)

そして、元々あった自分の感性が輝き出す。

その自分で言葉を再定義していけばOK!と思う今日この頃。

結果、それが幸せに妥協しない生き方につながれば嬉しく思います。

“ラフターヨガ”  “ジブリッシュ”共に、はじめての方でも安心してご参加いただけます。

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